明智光秀は南光坊天海として生きていた?徳川家の黒衣の宰相となった第二の人生とは!

本能寺の変には謎が多い。

1582年、天下統一目前だった織田信長は僅かな供と本能寺にいるときに明智光秀の謀反により討たれました。

そもそも明智光秀は織田家の家臣No.1。羽柴秀吉など比べ物にならないぐらい格上であり、公家や将軍家にも通じ信長の評価も高かい優秀な人物でした。

その光秀が信長に背いた理由は怨恨説や黒幕説など様々な説が語られ、ときに新説も飛び出していますがその真相はいまだにハッキリ分かっていません。

ただ事実として「中国大返し」をした羽柴秀吉に「山崎の戦い」で破れて敗走中に落ち武者刈りで命を落としたと言われていています。

 

 

しかし明智光秀は生き残り、徳川家康に仕えた黒衣の宰相「南光坊天海」であるという説があります。

本当に明智光秀は「南光坊天海」と同一人物であったのか探っていきます。

 

南光坊天海とは?

 

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南光坊天海|出典:wikipedia

南光坊天海は徳川家に家康・秀忠・家光の三代に仕えた天台宗の僧侶で108歳までという異例の長寿であったようです。

黒衣の宰相と呼ばれ徳川幕府からの信頼は厚く政治の中枢にあって、江戸の都市計画、朝廷との交渉役、大名たちの放免も積極的に行いました。

また家康の死去に際しては葬儀の導師をつとめ日光東照宮と寛永寺を建立しています。

 

天海(天文5年(1536年)? – 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

『東叡山開山慈眼大師縁起』に三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。しかし同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。

関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)に幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされる。天海は家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされる。

引用元:wikipedia

 

天海=明智光秀説の根拠

 

  • 山崎の合戦の後に光秀が比叡山に石碑を寄進していることから本人が生きている可能性が高いこと
  • 日光東照宮の屋根瓦に明智家の家紋・桔梗紋が多く使用されていること
  • 日光に明智平という地名があり、名付け親が天海であること
  • 天海と光秀の筆跡鑑定をしたところ「同一人物」である可能性が高いこと
  • 光秀の家老・斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)であること

 

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徳川家康|出典:wikipedia

つまり秀吉に討たれた光秀は生きていて「南光坊天海」と名乗り徳川家に仕えたということです。

しかし生きている事実がバレてしまうと命が狙われるため、山崎の戦いで死んだことにして世間から身を隠していたと考えられます。

1598年に秀吉が亡くなると豊臣家の力も衰え始め、命の危険が少なくなったので天海として本格的に活動を開始したようです。

天海という僧侶が歴史の表舞台に登場するのは1599年に岸和田に本徳寺を開基したことに始まり、1600年「関ケ原合戦図屏風」には徳川方に南光坊という人物が描かれています。

徳川家康が駿府で天海と対面したのは1608年とされていますが、1607年には信長の焼き討ち以来、荒廃していた比叡山の復興という大きな仕事を天海に任せています。これは家康が天海を古くから知っていた証拠でもあります。

さらに天海は明智光秀の領地だった坂本の復興にも力を注ぎ見事な町づくりをしています。その一方で豊臣家への恨みは強く大坂の陣のきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」に関与していることからも光秀と天海が同一人物である説が現実味を帯びている理由でもあります。

 

 

信長暗殺の3人の共犯者

 

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織田信長|出典:wikipedia

本能寺の変は豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康の3人が仕組んだ計画だった可能性があります。信長を亡き者にするため3人の利害が一致したために行われた計画的犯行だというものです。

 

明智光秀の理由

明智光秀は昔から主犯説があるために信長を討つ動機がたくさんあります。

  • 秩序を重んじる光秀にとって信長が朝廷や幕府をないがしろにしたこと
  • 信長が丹波・波多野秀治を処刑したため人質になっていた光秀の生母が波多野毛の家臣に殺されたことを恨んでいたこと
  • 光秀が苦心して結んだ四国・長宗我部元親との条約を無視して信長が四国攻めを決めたこと
  • 光秀が家康の接待中に信長から料理について因縁をつけられて接待役を罷免されたこと
  • 近江坂本と丹波を召し上げられ、敵国・毛利の領地の出雲と石見を与えると言われたこと

他にも光秀自信が天下統一を目指した野望説もありますが、いずれにしても信長を殺害する理由がたくさん見受けられます。

 

徳川家康の事情

そもそも本能寺で討たれるのは徳川家康だったという説があります。

信長は家康を危険人物と捉えており暗殺する計画を立てていたことが光秀の家臣やルイス・フロイスの記録にあります。

 

もし秀吉と光秀と結んでいたら家康はその情報を知っており思い当たることも会ったはずです。

もともと信長が家康と同盟を結んだ理由は織田家が畿内に進出するためのものであり、徳川家には東からの脅威を抑えてもらうのが目的です。信長が恐れていた甲斐の虎・武田信玄のへの盾として家康と結んでいましたが、この頃には信玄は死にその息子武田勝頼との「長篠の戦い」で勝利し武田家を滅亡させています。

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2016.10.03

北陸方面は信長が恐れていたもう一人の大名上杉謙信も急死しており、その後を継いだ上杉景勝の領地には柴田勝家が侵攻を開始しています。関東の北条には滝川一益、中国には羽柴秀吉が方面軍司令官として戦っており、四国には織田信孝を総大将として攻め込む準備ができていました。

本願寺や雑賀衆など畿内の敵を駆逐した信長の勢力は強大なものになっており、そんな信長が家康と結んだ20年前の同盟など、もはや用済みだったとも考えられます。

信長は封建的な権力を破壊するだけでなく、家臣に対しても常に結果を求めていたので、織田家に古くから仕えた林通勝や佐久間信盛のように実績がある宿老であっても職務怠慢とみると容赦なく追放しています。

苦労して手に入れた領地をいつ召し上げられるか怯えながら、信長からの無理難題を解決していくのは用意ではなかったはずです。

また以前に信長から長男・信康が武田家と内通したと疑いをかけられため、家康自ら信康に切腹を命じています。

 

豊臣秀吉の裏切りと代償

 

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豊臣秀吉|出典:wikipedia

農民の出身ながら主君・信長に実力を認められ出世街道をひた走る秀吉は織田家臣の中で頭角を現していきます。

もし秀吉に信長を討つ明確な理由があるとすれば天下統一という野望しか見当たりません。

天下取り目前まで成長した織田家のバトンを受け継ぐことで、自らの天下という野心が芽生えるのはある種当然のことです。

そのために信長に死んでもらいたいのが本音だったと考えられます。そこに持ちかけられた信長暗殺の話は秀吉には願ってもないチャンスでしたが、主君殺しには正当性などないので周囲が納得しないとも思っていました。

しかし光秀が「信長を討つのは自分の役目」という話を聞いた時に、秀吉にとって都合のよいシナリオを思いつきます。

 

光秀は家康と秀吉と結んで信長を暗殺したものの、秀吉の裏切りにより「主君・信長を殺した謀反人」として汚名をきせられます。

当初のシナリオでは秀吉の裏切りはなかったため、光秀は充分に準備する間もなく「山崎の戦い」で秀吉に敗れ、領地の坂本城を目指している途中に落ち武者刈りの百姓に竹槍で刺されたあと自害したと言われています。

 

主君の仇討ちに成功した秀吉は勢いに乗り、ライバルを蹴落としながら着実に駒を進め関白となり天下を統一します。

しかし結果的に豊臣家は徳川家によって滅亡に追い込まれるわけですが、そこには少なからず天海という人物が関わっていたのは間違いないようです。

 

 

 

元銀行マンNari(なり)です。専業主夫になったひきこもりのナイスミドルです。「四十にして惑わず」のはずが、家族持ちで今だに人生を模索中です。戦国時代や歴史の考察がメインのブログ発信をやってます。

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