「下克上の雄」北条早雲は元エリート官僚?由緒正しい家柄の出身であった理由の考察

北条早雲は伊勢(三重県)出身の一介の素浪人から伊豆・相模を平定し戦国大名に成り上がった「下克上の雄」と呼ばれているが、備中(岡山県)の伊勢氏出身の伊勢新九郎盛時である説が有力になっている。

つまり早雲は名も無き浪人の出身ではなく、備中の地頭職の家柄で室町幕府の申次衆という役職を務めたバリバリのエリート官僚出身ということになる。

 

謎の多い戦国大名・北条早雲

 

実力で権力を奪い取る戦国時代。早雲は戦国時代の始まりを告げる人物としても有名で「下克上」で成り上がった典型的な人物といえる。

北条早雲は戦国三大梟雄(きょうゆう)のひとり。梟雄とは「残忍で謀略を用いて成り上がったワルで強い人」のことで、言い換えれば徹底的なリアリストで古い考え方に縛られず目的のためには手段を選ばない人とも言える。(後の二人は斎藤道三と松永久秀)。その中でも早雲は戦国大名のさきがけ的存在で小田原城を拠点とする「後北条氏」の祖である。

 

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一般的に「北条早雲」と言われているが鎌倉時代に執権職に就いていた北条氏(元寇の時の執権・北条時宗など)とは何の縁もない。実際に早雲本人は北条と名乗ったことは一度もなく、早雲の子・氏綱の代になってから北条の姓を使うようになった。そこで早雲を始祖とする北条を「後北条氏」とよび鎌倉時代の執権・北条氏と区別されている。

さらに早雲という名前は法号で「早雲庵宗瑞」とか「長氏」とか諸説あり、一般的には「伊勢新九郎」とされている。

 

早雲はかなりの大器晩成タイプ?

 

早雲が初めて歴史に登場するのは姉(妹?)の北川殿が駿河(静岡県西部)の守護・今川義忠に嫁いだ縁で駿河に流れてきたというあたりからである。今川家の後継者争いに介入して今川義忠亡きあと、姉の子である龍王丸(今川氏親)に家督を継がせることに成功した。この功績により興国寺城が与えられた。この時早雲は55歳で初めて一国一城の主となった。

 

 

早雲の伊豆討入

早雲が今川家の守護代として興国寺城の城主となった1487年頃、隣国の伊豆(静岡県東部)は関東管領の山内上杉氏と堀越公方(室町幕府公認の鎌倉府の長官)の足利政知が治めていた。政知を支持する山内上杉氏は、古河公方(室町幕府と対立した旧鎌倉府長官の子孫)を支持する相模の関東管領・扇谷上杉氏と長く抗争していた。

その後、堀越公方・足利政知が病没すると正室の子・茶々丸と後室の産んだ子の間に内乱が起こった。茶々丸は後室とその子二人を殺し堀越公方を称したが、不安定な状態の伊豆の政治は混乱した。

早雲は伊豆をとる好機と見て湯治客を装い伊豆へ紛れ込んで情報を集め扇谷上杉氏とも協力関係を築く。山内上杉氏が扇谷上杉氏との合戦に出陣した隙を突いて早雲は自軍を海から西伊豆の海岸に上陸させ、茶々丸のいる堀越御所を背後から急襲した。茶々丸を追放した早雲は伊豆を支配下に治めた。

 

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伊豆で抗争を繰り返していた山内上杉氏と対立する扇谷上杉家の助けを得たものと思われるが、両者の対立を巧妙に利用したわけで綿密な情報収集と機械を逃さない早雲の大勝利であった。こうした早雲の行動は守護大名として将軍家に絶対的な忠節を誓っていた今川氏とは異なり、新しいタイプの戦国大名が現れたことを意味している。

 

小田原城を計略で奪い取る

早雲は単に一国一城の主に治まらず関東を制覇しようという壮大な構想を持っていた。小田原を支配していた大森氏に近づいて信用させて、頃合いを見計らって一気に小田原城も奪い取ったのである。

 

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小田原城|出典:wikipedia

 

早雲は相模の小田原城主・大森藤頼に計略を実行する。早雲は鹿狩の途中で「鹿が小田原城の裏山に逃げたので勢子(狩猟で声や鳴り物で獲物を狩り出す役)を入れさせて欲しい」と願い出る。日頃からしばしば贈り物を届け信頼させていたので、すっかり心を許していた大森はあっさり了承。

早雲は勢子に扮装した兵士を小田原城の背後の箱根山に送り込み夜まで待機させた。松明を角にくくりつけた千頭の牛を小田原城へ走らせ、あたかも大軍が攻めてきたように見せかけると小田原城内は大混乱になり藤頼は城を捨てて逃げ出した。早雲は「火牛の計」で小田原城を奪い取った。

 

「早雲の野望」を実現した子孫たち

 

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北条五代の墓|出典:wikipedia

早雲は知略・計略に優れていただけでなく、戦国大名として優れた政治手腕を発揮し、当時「五公五民」だった年貢の税率を「四公六民」にする減税を行って領民の心を掴み、部下には節約をさせた。早雲は倹約家であった一方で、戦時となれば大切なものでも思い切って犠牲にすることをいとわない優れた経済感覚を持っていた。

また実際に「成り上がり者」だからこそ、古典や歌道を趣味とすることで周囲から「成り上がり者」と馬鹿にされないようにするバランス感覚も持ち合わせていたようだ。

また「早雲寺殿二十一箇条」で日常の細かい注意事項から人生観や宗教観や仕事への心得を後継者や家臣に家訓を残した。その用意周到さと北条氏の反映を確信して「関東制覇」という野望を子孫に託した。

事実、早雲の跡を継いだ2代当主・氏綱は相模・伊豆にとどまらず武蔵(東京都・埼玉県)の半分まで支配し、3代氏康は武蔵の全域と上野(群馬県)の一部を攻め取った。続く4代氏政、5代氏直の時代には上野全域に下野(栃木県)・下総(千葉県北部と茨城県)・上総(千葉県中部)と関東の大半を支配し「関東一の名門」といわれるほどの大大名になった。

 

まとめ

 

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伊勢盛時の出身地・岡山県井原市|出典:wikipeidia

備中伊勢氏出身の説を唱えたのは歴史学者の小和田哲男氏で、当時の資料に「伊勢新九郎」が今川家の家督相続の問題解決をしていることから早雲=伊勢新九郎で幕府の申次衆を勤めていたことを証明した。

また早雲の伊豆侵攻(足利茶々丸追放)と室町幕府管領・細川政元のクーデター「明応の政変」と連携していると言われている。この政変は足利義稙を更迭し、新将軍として足利義澄を擁立した事件。

新将軍の足利義澄の母と弟を殺した敵である足利茶々丸を討つために早雲に命じて攻めさせたと考えられる。つまり早雲は幕府と密接な関係を持っていた人物=幕府の申次衆・伊勢新九郎である可能性が高い。

そもそも早雲の姉は駿河の名門今川家に嫁いでいることから、常識的に考えて早雲の出自は名のある家柄であり一介の素浪人出身ではあり得ないはずだ。ただ幕府の官僚出身だとしても、後世の語られるほどの戦国大名にのし上がった早雲が「下克上の雄」であることに疑いようはない。

 

元銀行マンNari(なり)です。専業主夫になったひきこもりのナイスミドルです。「四十にして惑わず」のはずが、家族持ちで今だに人生を模索中です。戦国時代や歴史の考察がメインのブログ発信をやってます。

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