毛利元就「厳島の戦い」で小領主から戦国大名へ|毛利家の運命を決定したジャイアントキリング!

戦国武将・毛利元就は生涯に200以上の合戦を知略を尽くして、そのほとんどを勝ち抜き中国十カ国を制覇しました。

まだ小領主に過ぎなかった元就が世に出るきっかけとなったのが、厳島の戦い。この戦いは聖域とされていた厳島全体が戦場となる大規模なものでした。厳島の戦いは毛利元就が圧倒的に不利な状況ながら、知略・謀略を尽くして陶晴賢の大軍に勝利を収めた戦いです。

主君・大内義隆を滅ぼした陶晴賢の兵力は二万、対する毛利軍はわずか四千。まともに戦っても勝ち目がない元就は厳島に目をつけます。交通・商業の要所ながら平地が少ないこの島に陶の大軍をおびき出し、身動きが取れない敵を一気に殲滅するというのが元就の作戦でした。

 

厳島の戦いの前哨戦「折敷畑の戦い」

 

このころ中国地方は西の大内家と山陰の尼子家が勢力を振るっていたため、毛利のような小豪族は、両者の機嫌を伺いながら生き残るしかありませんでした。

 

元就は次男・元春を吉川家へ、三男・隆景を小早川家に養子に出して跡継ぎにすることで着実に勢力を拡げていきましたが、大内・尼子の二大勢力との力の差は比べものになりません。

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大内義隆|出典:eikipedia

厳島の戦いの頃、毛利は大内家に臣従していましたが1551年大内家の重臣・陶晴賢が主君・大内義隆に謀反を起こします。実権を握った晴賢は自分に従わない勢力に圧力をかけていきます。

 

石見(島根県西部)の吉見正頼が義隆の仇討ちのため挙兵すると、晴賢は吉見氏を討つために安芸の元就たち国人領主に出兵するよう命令します。

 

元就はさんざん返事を引き伸ばした後に、「主君を殺した陶晴賢には従えない」として陶晴賢との関係を断絶、毛利・吉川・小早川などの兵3000を出陣させます。石見出兵で守りが手薄になった近隣の4つの城と厳島をわずか1日で攻略しあっという間に安芸(広島県西部)を平定しました。

 

激怒した晴賢は家臣・宮川房長に毛利征伐のため7千の兵を向かわせます。しかし、毛利の前線基地・桜尾城をのぞむ折敷畑山で毛利軍3千が四方から急襲したため宮川房長は討ち死にしてしまいます。

 

毛利元就が仕掛けた謀略はすべて的中

 

折敷畑山で勝利したものの、2万とも言われる陶軍本隊と野戦で勝てる見込みはほとんどなく、なんとしても厳島におびき寄せそこで一気に叩く作戦しかありません。

そこで元就は得意の情報戦をしかけます。

毛利元就
陶の重臣・江良房栄殿が毛利に味方してくれるとはありがたいことじゃ!
敵の忍者
…江良房栄が謀反だと? すぐに晴賢さまにお伝えせねば!

この情報を信じた晴賢は房栄を処刑してしまいます。

 

次は陶軍を厳島におびき出すための作戦を決行します。

  • 宮尾城が役に立たないと思わせる
毛利元就
厳島に築いた宮尾城は大失敗じゃ!こんな城…陶軍に攻め込まれたらすぐに落城してしまうわ!
敵の忍者
宮尾城はかなりもろい城のようだな…

 

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宮尾城跡

 

  • 毛利の家臣で桜尾城主・桂元澄に陶方に寝返るフリをさせる。
毛利元就
陶晴賢に毛利を裏切ると書状を送れ!
桂元澄
分かりました。殿を裏切ったフリをします。

 

 

  • 村上水軍との交渉(瀬戸内最大の海賊・村上水軍がどちらにつくかが勝敗を左右する大きな鍵)
毛利元就
毛利に味方してほしいのは「1日のみ」だ!
村上水軍
1日だけ味方してほしいだと… 気に入った!

 

この作戦はすべて的中し陶晴賢は2万の大軍で厳島に上陸し、五百艘を超える船が厳島の北岸を埋め尽くします。

陶軍は塔の丘に本陣をおき、元就の計算通りに宮尾城(オトリの城)を包囲したものの、悪天候で攻めあぐねます。

 

毛利元就の奇襲攻撃で陶晴賢は自害

 

この知らせを聞いた元就は嵐の闇夜にまぎれて長男・隆元、次男・元春を従え厳島の鼓ヶ浦に上陸。そして、陶軍に気づかれないように博奕尾の峰に登り陶軍の背後に回り込みます。

一方、小早川隆景の別働隊は「陶軍に味方するために九州から来た援軍だ」と偽って、厳島の正面に上陸することに成功します。

村上水軍は、船団を沖合で待機し戦いの合図を待ちます。

夜明けとともに毛利軍の奇襲攻撃が始まり、前夜の暴風雨で油断していた陶軍は大混乱に陥ります。

狭い島内にひしめく二万の軍勢は身動きも取れず、まともに戦うことさえできません。間もなく陶軍は総崩れとなります。

島から逃げ出そうと船に殺到した陶軍の兵士は沖合で待ち構えていた村上水軍に船ごと焼き払われ多くが海に沈んでしまいました。

晴賢はわずかな供をつれて船を探して島を逃げ回ったが、追い詰められ大江浦で自刃しました。

 

 

国人領主から戦国大名へと進化する毛利家

 

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この厳島の戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ毛利家のターニングポイントとなりました。このあと元就は陶晴賢が支配していた大内領の周防・長門(山口県)を勢力下におさえ戦国大名として発展していきます。

このとき元就・59歳。人間五十年と言われた時代、他の戦国武将と比べてもあまりに遅い戦国大名の仲間入りです。

ちなみにホンモノの桶狭間の戦いは1560年(織田信長が26歳の時)。厳島の戦いの5年後になります。

 

毛利元就の厳島信仰の強さ

厳島神社の大鳥居

この厳島の戦いで戦死した陶軍の兵士は四千七百を超えたと言われ、いかに激しい戦いだったかを物語っています。

元就は死者を対岸に運び出して手厚く埋葬した。厳島の流血で汚れた土をすべて削り取って海に捨てた。厳島神社の神殿も海水で洗い清め、神楽などを奉納し敵味方を問わず戦没者の冥福を祈った。

 

毛利元就は3人の子供に向けた三子教訓状でも厳島神社のことに触れています。

私は昔から厳島神社を大切にする気持ちがあり長い間信仰している。

厳島の戦いの時も前兆があり、厳島大明神のご加護であろうと安心できた。

だから、みんなも厳島神社を信仰することを願っている。

 

元就は聖地である厳島を穢してしまったことを重く受け止め、後に社殿を再建しています。現在、世界遺産となった厳島神社の本殿は毛利元就が建て替えたものです。

 

 

元銀行マンNari(なり)です。専業主夫になったひきこもりのナイスミドルです。「四十にして惑わず」のはずが、家族持ちで今だに人生を模索中です。戦国時代や歴史の考察がメインのブログ発信をやってます。

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