「吉川晃司」の先祖は戦国武将!不敗神話を持つ猛将「吉川元春」の生きざま

吉川晃司(ミュージシャン・俳優)は芸能生活30年を超える「ロック界のスーパースター」

最近でもドラマやCMでもよく見かけますね。

 

その吉川晃司の先祖は有名な戦国武将の吉川元春。

吉川元春は戦場で一度も負けなかった「伝説の武将」です。

ちなみに吉川元春の父親は「三本の矢」の逸話で有名な毛利元就。

ということは吉川晃司は毛利元就の子孫でもあるのです。

 

吉川元春はあの織田信長や豊臣秀吉とも戦っています。

しかも、秀吉に騙された事に気づいて背後から襲いかかろうとしました。

もし秀吉の背中に斬りかかっていたら、歴史は大きく変わったかもしれません。

 

 

吉川元春

戦国大名毛利元就の次男。

安芸の豪族・吉川家を嗣ぎ、山陰地方の攻略にあたる

不敗を誇った家中随一の猛将。(生涯戦績76戦64勝12分け)

父・元就も「合戦では元春の足元にも及ばない」と武勇を賞賛

一方、陣中で「太平記」40巻を完璧に写本した教養人

 

山陽地方担当の弟・小早川隆景との「毛利両川」で毛利家の発展に大きく貢献

(吉川・小早川ともに「川」の字がつくことから「毛利両川」といわれた)

 

吉川元春の幼少期

毛利元就は一代で中国地方全域を支配し「西国の覇者」と呼ばれるようになりますが、

この頃はまだ小さな国人領主で、西の「大内家」と山陰の「尼子家」の大勢力に挟まれ

わずかな領国を守るのが精一杯でした。

 

1530年、吉川元春は安芸(広島県西部)の戦国大名「毛利元就」の次男として吉田郡山城で生まれました。

幼名は少輔次郎。体が大きいし力も強い。口数は少ないが負けん気の強い子供でした。

 

幼い頃の有名な話で、弟の小早川隆景との雪合戦があります。

次男「元春」と三男「隆景」が仲間を率いて5人 vs 5人の雪合戦

 

一回戦、元春の豪腕が隆景を圧倒し勝ちました。

負けた隆景は「もう一度やろう」と元春に持ちかけます。

二回戦、隆景チームはなぜか3人で戦っています。

じりじりと下がる隆景を追いかけて元春が前に出ると、

隠れていた2人に挟み撃ちにあって負けてしまいました。

 

この雪合戦をじっと見ていた父・元就は、元春と隆景の適性を見抜きます。

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毛利元就|出典元:wikipedia

「勇猛果敢な元春は、剛の者が多い山陰」

「思慮深い隆景は、上手に立ちまわる必要がある瀬戸内」

 

ちなみに吉川元春が戦(いくさ)と名のつくもので敗北したのはこの時だけです。

 

 

元春の初陣

 

元春の初陣は、1540年山陰の尼子晴久率いる3万の軍勢を

毛利勢わずか2400で迎え撃った吉田郡山城の戦いです。

この時元春はまだ11歳で元服してません。

 

元就の反対を押し切って出陣した元春は何人もの敵兵を討ち取ります。

これを見た味方の士気も大きく上がりました。

早くも猛将としての才を発揮した見事な初陣です。

 

城を守って5ヶ月後、ついに救援がきます。

大内家の陶晴賢率いる援軍一万と協力し尼子勢を追い返しました。

 

吉川家の当主になる

 

1547年、父・毛利元就は用意周到な計略どおり、山陰の名門吉川家のクーデターにつけ込み

元春を吉川家の養子にして乗っ取りを成功させたます。

元春はこの時から吉川姓を名乗り「吉川元春」になりました。

 

これより3年前には瀬戸内方面の名門小早川家に三男隆景を送り込み乗っ取っていました。

父・元就が小早川家の後継者問題に介入して、まんまと我が物にしたのです。

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小早川隆景|出典:wikipedia

 

毛利家は北の吉川家と南の小早川家を戦わずして手に入れたわけです。

これ以降、山陰は吉川元春、山陽は小早川隆景が担当するようになります。

雪合戦で父・元就が見抜いたとおりの展開になりました。

 

 

吉川元春の嫁取り 女は顔じゃない!

 

18歳になった元春に結婚話が持ち上がります。

この当時の18歳なら妻を迎えてもおかしくない年齢です。

 

元春は家臣の熊谷信直の娘と結婚したいと願い出ます。

家臣の熊谷信直は勇敢な武将だが、娘は世間でも評判になるほどの醜女で、

なかなか縁談が決まらないことに悩んでいました。

 

父・元就は「なぜ熊谷信直の娘と結婚したいのか」と尋ねます。

熊谷信直の娘が器量が悪いのは聞いています。信直も縁談が決まらないと嘆いているでしょう。

もし私がその娘を娶ったら、信直も喜び私のために死力を尽くして働いてくれるでしょう

そもそも私は美女を妻にしたいと思ったことはありません。信直の娘を妻にするのは何よりも毛利家の為です

元就は「じつに殊勝である」と感嘆して結婚を承諾しました。

 

元春から結婚の申し入れをすると信直は諸手を上げて大喜びします。

それ以来、信直は元春の忠実な家臣となり、命を惜しまぬ戦いぶりで数多くの手柄を立てていきました。

 

元春の妻は「新庄の局」と言われ夫婦仲もよく四男二女の子宝に恵まれます。

元春はこの「新庄の局」を生涯愛し続け、側室を持ちませんでした。

ちなみに兄の隆元、弟の隆景も側室はいません。この時代にしては珍しい兄弟なのかもしれません。

 

吉川元春の連勝記録

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吉川元春は戦場では「鬼吉川」と呼ばれ、各地で敵を打ち破りました。

父・元就に従っての戦いですが、この時点では毛利家と吉川家の利益は一致していました。

毛利家、吉川家、小早川家の関係も良好で順調に勢力を伸ばしていきます。

 

1555年 厳島の戦い

大内家の陶晴賢の軍勢を厳島で破る

後に大内家は滅亡。周防・長門を支配下に置く

 

1562年 石見銀山を支配

尼子家と石見銀山の支配権を巡り激しく対立

敵を寝返らせて石見銀山を手に入れる

 

1566年 月山富田城の戦い

尼子家の本拠地月山富田城を落城させる

後に尼子家は滅亡。出雲を支配下に置く

 

1570年ころには中国地方のほぼ全域が毛利領になりました。

しかし、その毛利家の勢いにも陰りが見え始めます。

 

羽柴秀吉との戦いで毛利家が分裂

 

父・元就の死後、元春と隆景は後継者の毛利輝元(元就の孫)を補佐し毛利本家のために尽力し続けます。

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毛利輝元|出典:wikipedia

そこに天下統一を目指す織田信長の「中国攻め」が始まります。

織田信長の命令を受けた羽柴秀吉の軍勢に毛利方の城は次々と陥落していきました。

 

難攻不落といわれた鳥取城は「渇え殺し」と呼ばれる兵糧攻めで落城し、

今度は毛利領の入り口にある備中高松城が水攻めにあい包囲されました。

吉川元春と小早川隆景は、備中高松城に救援に向かいましたが

城は完全に水没して助けることができません。

 

この時に本能寺の変で状況が大きく変化します。

羽柴秀吉は織田信長が死んだことをひた隠しにして毛利と停戦し

明智光秀を倒すため東に向かい始めます。

 

騙されたことに気づいた元春は羽柴軍を追撃するべきと主張しましたが、

隆景はここは見逃して「秀吉に恩を売る方が得策」だと主張して意見が対立します。

結局、追撃は出来ませんでした。

 

吉川元春の最期

 

隆景の狙いどおりに毛利家は秀吉から好遇を受けることになります。

後の五大老の役に毛利の人間が二人(毛利輝元と小早川隆景)という特別扱いです。

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豊臣秀吉|出典:wikipedia

しかし元春は秀吉の下で働くつもりなどありません。

鳥取城のむごたらしいやり方や備中高松城の一件がどうしても許せない。

秀吉に従うぐらいならと家督を長男元長に譲って隠居してしまいます。

秀吉から四国征伐を命じられても、元長は出陣しましたが自らは出陣しませんでした。

 

しかし九州平定の時には、前回メンツを潰された秀吉は元春も出陣するよう厳命します。

当主輝元と隆景の必死の説得で、元春は隠居の身でありながら仕方なく出陣しました。

この頃、元春は重い病にかかっており出征して間もなく小倉城で急死します。

その翌年、長男元長も日向で病に倒れ吉川家は三男の広家が継ぎました。

 

元銀行マンNari(なり)です。専業主夫になったひきこもりのナイスミドルです。「四十にして惑わず」のはずが、家族持ちで今だに人生を模索中です。戦国時代や歴史の考察がメインのブログ発信をやってます。

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