小早川隆景は毛利家を守るためにすべてを捨てた知将だった!

小早川隆景は戦国時代に西国の覇者となった毛利元就の三男。

幼少の頃から人質や養子に出されましたが、毛利家の発展のために一生を捧げた戦国時代を代表する知将です。

小早川の家を犠牲にしてまで最後まで毛利家を守り抜いた仁義の人として知られています。

また隆景の凄いところは、豊臣秀吉や黒田官兵衛、鍋島直茂ら実力者からもその実力を高く評価され、この人の事を悪く言う人がいないということです。

知勇兼備で義理に厚く、思慮深い性格で忍耐強い。隆景は父・元就の才覚を最も色濃く受け継いだと言われています。

 

毛利元就の謀略で小早川家を継ぐ

 

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小早川家家紋 左三つ巴紋|wikipedia

小早川家の歴史は古く、源頼朝に仕えた鎌倉時代の武将・土肥実平に始まります。実平は平氏追討で功を立て沼田庄(広島県三原市)の地頭として移り住み、やがて小早川を名乗ります。

その子孫・茂平は竹原庄(広島県竹原市)の地頭職も与えられ、本家は沼田小早川家、分家は竹原小早川家として勢力を拡げていきます。

両家は強力な水軍を活かして瀬戸内海に支配力を持った有力国人領主となり、応仁の乱のときは敵味方に別れて戦ったこともありました。

 

元就の知略で竹原小早川家の養子になる

1541年、竹原小早川家の当主・小早川興景が跡継ぎがいないまま病死すると、重臣たちは親戚筋にあたる毛利元就に養子を迎えたいと申し出ます。

元就にとっては都合の良いラッキーな話でしたが、すぐに引き受けたら竹原小早川家を乗っ取ったと思われ、主君・大内義隆から反感を買う恐れがあります。

用心深い元就は「やむを得ず我が子を養子にした」という形にするため、申し出を断ります。

 

弱肉強食の戦国時代に跡継ぎが決まらないのは竹原小早川家にとって存亡の危機。困った竹原小早川家の重臣が大内家に相談を持ちかけた結果、大内義隆は「早く養子縁組を進める」よう元就に催促します。

養子の返事を3年も引き伸ばした元就は「主君である大内家の要望なら断れない」という状況をつくり、三男・隆景を養子にすることを承諾します。元就は誰に反対されることもなく実質、竹原小早川家を毛利の傘下にすることに成功します。

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毛利元就|出典:wikipedia

 

元就の謀略により小早川本家も相続する

1544年、隆景が竹原小早川家の養子に入ったころ今度は本家の沼田小早川家でも後継者問題が起こります。尼子家との戦いで当主・正平が討ち死にしたため嫡男・繁平が跡を嗣ぎましたが、繁平はまだ幼いうえに目を患い失明していました。

その弱体化を見て尼子の軍勢が本拠の高山城を攻撃しかけてきます。重臣・乃美影興がなんとか撃退したものの、幼く目が見えない繁平が当主となった沼田小早川家は不穏なムードに包まれます。

沼田小早川家は「失明した当主では心許ないので、竹原小早川家と合体させるべき」という乃美隆興・影興親子と「家臣が盛り立てれば問題ない」とする田坂全慶らが対立するようになります。

 

両小早川家の合体は元就にとって「渡りに船」だったので、合体賛成派の乃美隆興に接近し家中の意思統一をはかるよう働きかけます。

主君・大内義隆もこのままでは尼子家に対抗できないと懸念したため繁平は「尼子家と内通の疑い」で隠居させられ出家。小早川隆景は繁平の妹と結婚し沼田小早川家も引き継ぐことになりました。

 

 

こうして元就は実質的に小早川家を毛利家の傘下にすることに成功しましたが、今回ばかりは強引な手段に出ます。隆景が高山城に入場すると、後顧の憂いを断つため田坂全慶らの繁平派の重臣全員を粛清。

隆景は家中の紛争が治まると人心の一新のため高山城から沼田川の対岸に新高山城を築き城替えを行いました。

 

毛利両川で本家の発展に尽力する

 

小早川家の当主となった隆景は備後神辺城攻めで初陣を飾り、神辺城の支城・龍王山砦を単独で落とすという功を挙げ大内義隆から賞賛されます。

1555年、主君・大内義隆を滅ぼした陶晴賢との「厳島の戦い」では村上水軍を味方につける調略で高い交渉能力を発揮するだけでなく、自らも水軍を率いて晴賢の水軍を撃破し海上封鎖に成功します。

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その後は毛利家の山陽方面を担当するだけでなく、北九州では大友宗麟との戦いや山陰の尼子家との戦いで活躍し父・元就を支え続けます。

 

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毛利輝元|wikipedia

父・元就が亡くなると毛利を継いだ甥の輝元を補佐。山陰方面を兄・吉川元春が山陽方面を隆景が担当し「毛利両川」と言われる体制で毛利家の発展を支えます。

隆景は早逝した兄・隆元の親代りとして輝元の教育にあたり、家臣のいないところでは輝元を厳しく折檻することもありました。

 

豊臣政権で毛利家を一人で守る隆景

 

1582年、居城を新高山城から瀬戸内海に面した三原城に移した頃、織田信長の家臣・羽柴秀吉が毛利方の武将・清水宗治が籠もる備中高松城を水攻めで包囲しました。

隆景は毛利輝元を総大将として吉川元春とともに救援に駆けつけますが羽柴軍の包囲は固く手出しができないため膠着状態になります。

 

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備中高松城跡|wikipedia

本能寺の変を知った秀吉は信長の死を隠し、毛利家に有利な条件で和睦交渉を持ちかけます。

この和平が成立すると秀吉は急いで中国地方から撤退し、明智光秀との決戦のため畿内に進軍する「中国大返し」を開始。

 

騙されたと激怒し秀吉追撃を主張する兄・元春に対して、この後に天下を取るのは秀吉だと見抜いていた隆景は「今追撃しても毛利家のためにならない。天下人になる秀吉に恩を売るべきだ」と説得しました。

後にこのことを知った秀吉は隆景に感謝し毛利家との関係は親密になっていきます。

 

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その後隆景は秀吉に接近して毛利家を守ろうとしました。特に兄・元春が毛嫌いしてた秀吉の命令に従わないこともあって、「自分が秀吉に協力しなくては」と積極的に秀吉の天下取りに参加します。

 

 

秀吉の陰謀と隆景の活躍

 

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豊臣秀吉|wikipedia

一方の秀吉は「大き過ぎる属国」毛利家の弱体化をはかるため、知勇兼備の隆景を毛利本家から引き離し、独立した大名として取り立てること画策します。

それを把握していた隆景は四国攻めの功績で伊予一国(愛媛県)が与えられても、毛利本家から伊予を受領する形にしてもらい毛利家の家臣としての立場を崩しませんでした。

また隆景の伊予統治は宣教師ルイス・フロイスも「見事なものだった」と称賛していますが、この間も本拠地は三原のままでした。

 

 

その後、九州征伐の陣中で兄・元春とその長男・元長が亡くなると隆景は一人で毛利家を支えていくことになります。

隆景は日向(宮崎県)の「根白坂の戦い」で見事に勝利しただけでなく、飲まず食わずで戦った豊臣軍に「粥や酒をふるまって喜ばせた」という記録があります。

この働きにより隆景は筑前37万石を与えられますが、あくまで豊臣家からの預かり物として管理することで毛利から離れることはありませんでした。

秀吉は九州平定後に「九州の地は中国八カ国より広い。これを毛利家に与えようと思うがどうか?」と隆景に聞いたところ、「今の領地でも過分」とあっさり辞退しています。隆景は分をわきまえることで毛利家の安泰を保つことができると考えていたようです。

 

 

常に的確な隆景の判断

 

隆景は朝鮮出兵にも参加しています。文禄の役で第六番隊の主将として参加した隆景でしたが、平壌で小西行長が明軍に大敗したため全軍に撤退命令が下ります。

開城にいた隆景は珍しく「いきて日本に帰る気はない。老骨一人が死んだところで日本の恥にはならん」と撤退を拒否しましたが、大谷吉継の必死の説得で撤退を決めました。

 

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文禄の役|wikipedia

しかし明軍が追撃して来たという知らせを受けて隆景と立花宗茂が迎撃に向かいます。

立花宗茂が明軍の先鋒隊を蹴散らしたものの明の援軍が到着したので隆景はいったん体制を整えます。

隆景は前線に兵を潜ませ、突入してきた明軍に対して小早川秀包(隆景の養子)と立花宗茂が左右から、隆景が正面から三方から攻撃したため明軍は大混乱になり敗走しました。(碧蹄館の戦い)

 

黒田長政が隆景に「戦場で的確な判断をする秘訣」を尋ねると、「特に秘訣はない。ただ時間をかけてよく考えて分別ある判断するだけだ。」と謙遜しながら答えました。

「では、分別のある判断をするにはどうしたら良いか?」と重ねて質問した長政に隆景はこう答えました。

分別ある判断をするには、仁愛(相手を思いやる気持ち)が大切だ。仁愛のない判断は、いい考えに思えても全て間違いだ。どんな時でも仁愛を基準にすれば、例え最良の判断とはいえなくても大きな間違いのない判断ができる。

 

毛利本家を守るために犠牲にしたもの

 

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小早川秀秋|wikipedia

小早川隆景には子がいませんでいたが、秀吉の甥・秀秋を養子として跡継ぎにしました。

1593年、秀吉に実子の秀頼が生まれたため、豊臣家の後継者に据えていた養子の秀秋は微妙な立場になります。

秀吉は毛利輝元に子どもがいないことに目をつけ、秀秋を送り込んで毛利を牛耳ろうと考えます。

この養子縁組を聞いた隆景は即座に動きます。自分の養子にしていた秀包を廃嫡して毛利家に戻すと同時に、輝元には甥の毛利秀元を養子にさせました。

その上で隆景は「秀秋を小早川家の養子に迎えたい」と秀吉に申し出ます。

隆景は小早川家を犠牲にして、毛利宗家を守ったのです。

 

しかし毛利家の乗っ取りに失敗した秀吉は隆景の実力を認めており「西国は小早川隆景に、東国は徳川家康に任せれば安泰」とまで評したそうです。

また晩年の秀吉は「家臣達の中で天下を任せられるのは直江兼続、堀直政、そして小早川隆景である。」と述べています。

隆景は秀吉から警戒されながらも、羽柴筑前宰相、備後中納言などと呼ばれてその才覚を愛されていたようです。

1595年、その実力を高く評価された隆景は毛利輝元とともに五大老に任じられました。

 

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三原城|wikipedia

その後、筑前に名島城を築城した隆景は秀秋に家督を譲り、家臣団とともに備後三原城に隠居します。

1597年、隆景は65歳でこの世を去りますが、遺訓の中でこう述べています。

 

「天下が乱れても、輝元は戦のことに深入りしてはいけない。自分の領国を守り、失わないように心がけるべきだ。なぜなら輝元には天下を動かすだけの器量がない。もし天下の戦の謀に関与すれば、必ず今の領地を失い見を危うくすることになる。」

 

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しかしその3年後、毛利輝元は関ヶ原の戦いで安国寺恵瓊を通じて石田三成に誘われて西軍の総大将にまつりあげられます。吉川広家の奔走でなんとか助命となりましたが、領地は周防・長門(山口県)だけになってしまいました。

叔父・小早川隆景の遺訓は活かされず、天下の謀に関与したばかりに祖父・元就が築き一門が守ってきた領地をほとんど失ってしまいました。

 

 

 

元銀行マンNari(なり)です。専業主夫になったひきこもりのナイスミドルです。「四十にして惑わず」のはずが、家族持ちで今だに人生を模索中です。戦国時代や歴史の考察がメインのブログ発信をやってます。

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