毛利元就「三本の矢」は創作でも、今も語り継がれているのは理由があるから

戦国大名「毛利元就」は安芸の国(現在の広島県西部)の小さな国人領主から、

一代で「西国の覇者」と言われるまで領地を拡大し「戦国最高の知将」とも呼ばれています。

 

しかし、華がないというか人気がない。

天下人の「御三家」織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は別格としても

真田幸村、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗などの人気武将と比べても知名度は今ひとつ。

 

ともすればアベノミクス3本の矢でも引用されたお話「三本の矢」方が

毛利元就ご本人よりも知名度が高いと思います。

 

毛利元就「三本の矢」ダイジェスト版

 

自らの死期を悟った元就がまだ幼い三人の息子たちを枕元に呼び、

矢を一本ずつ渡して「この矢を折ってみよ」と命じると

三人の息子たちは難なく矢をへし折ります。

 

今度は矢を三本にして「折ってみよ」とチャレンジさせると

息子たちは折ることが出来ません。

 

「一本の矢ならたやすく折れるが、三本まとめると折れにくい」

「これと同じように、兄弟三人で結束して毛利家を守りなさい」

 

三本の矢を使って結束する意味を説いたお話です。

 

 

 

毛利元就「三本の矢」は後世の創作だけど?

 

有名な「三矢の訓え」ですが、今では完全に後世の創作だと言われています。

その説明と考察をしてみます。

 

父元就より長男隆元のほうが短命だった

まず三兄弟の長男「毛利隆元」は、父元就が死去した時より8年も前に謎の死を遂げています。

タイムマシンなしで先に死んだ息子が、父の臨終にかけつけることは絶対にありえません。

 

この時、次男「吉川元春」は出雲(島根県東部)で反乱鎮圧ため出陣していたので、

実際問題、父の死に立ち会えるとしたら三男「小早川隆景」だけと思います。

 

元就の最期には次男・三男とも既にアラフォーだった

また逸話の中では三人の息子たちが「幼い少年」の設定になってますが、

父元就がこの世を去ったのは75歳。

当時としては元就はかなりの長生きしたので、

この時末っ子の小早川隆景ですら38歳の立派なナイスミドル。

 

竹の三本の矢なら誰でも折れる

この当時の矢は、「矢竹」と言われる竹で作られていたので

成人男性であれば(竹製の)矢を三本折るくらいは朝飯前だったはず。

それを知らなかったのか、あえて考慮しなかったのかは分かりませんが、

いずれにしても後世の人の創作である可能性が高いです。

 

名場面の再現ドラマのリアリティーの為には、どうしても

三兄弟を幼い少年の設定にするしかなかったのかもしれないですね。

 

 

世界中で語られる「三つの○○」

 

この話とよく似た話ではイソップ物語の「三本の棒」が有名でます。

他にも中国やアフリカにも類似したお話があり、

どれがオリジナルか分からないぐらいだそうです。

 

ただ教養人で情報通だった毛利元就なら、これらの話を知っていた可能性大です。

この話をベースにして三兄弟が幼い頃、実際の矢を使って教育していたかもしれないですね。

 

まとめ

 

「3本の矢」は、毛利元就が三人の息子に宛てた手紙で兄弟で力を合わせて

毛利家を盛りたてるように書いた「三子教訓状」がベースになっています。

 

残念ながら、この自筆の手紙の中には「三本の矢」の話は一切でてきませんが、

明治以降の教育の場でこの逸話が使われて以降、全国で広まったようです。

 

サッカーJ1リーグのサンフレッチェ広島のチーム名も由来は「3本の矢」。

 

「サン」(数字の3)+「フレッチェ」(イタリア語で矢を意味する)

 

 

こんなところでも「三本の矢」は今も立派に語り継がれています。

 

元銀行マンNari(なり)です。専業主夫になったひきこもりのナイスミドルです。「四十にして惑わず」のはずが、家族持ちで今だに人生を模索中です。戦国時代や歴史の考察がメインのブログ発信をやってます。

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