毛利輝元が「関ヶ原の戦い」で動かなかった理由の考察|策士として再評価される毛利元就の孫

今から約400年以上前に行われた天下分け目の関が原の戦い。

そこには大きな謎があります。

関ヶ原では東軍・徳川家康と西軍・石田三成の軍勢が死力を尽くして戦いました。

しかし主戦場を見下ろす南宮山という絶好の位置に陣取っていた毛利家は

全く動かず静観を決め込んでいました。

 

毛利家は西国の雄と呼ばれ徳川家康と対抗できる強力な存在でした。

しかも、当主の毛利輝元は西軍の総大将を努めていたにも関わらず、

なぜ毛利家は動かなかったのか。

関ヶ原で戦いに出陣せず、所領を大きく減らしてしまった輝元は

消極的で決断力がないとされています。

 

しかし、関ヶ原の戦いの直前、毛利輝元は家康についた西国大名の領地を

次々と襲い西国制覇を目指す行動に出ます。

 

さらに輝元は石田三成と図り東国で家康を迎え撃つ作戦を立てるなど、

極めて積極的に動いていた事が分かってきました。

 

毛利輝元というと一般的に凡庸な三代目というイメージですが、

実は祖父・毛利元就ゆずりの策謀を好むかなりの野心家だったようです。

 

 

西軍を率いていたのは毛利輝元

 

関ヶ原の戦いは徳川家康と石田三成の二人を軸としてよく描かれています。

しかし西軍の総大将はあくまでも毛利輝元。

 

当時、徳川240万石に対して毛利は120万石と言われていますが、

毛利の領地は当時の政治の中心地である大坂・伏見に近く、

家康の勢力があまり及ばない西国で最も大きな勢力を誇ります。

石見銀山など西国の良い土地を持っていたので家康に対抗できる大名は

毛利しかありませんでした。

 

毛利輝元の抑圧された少年期

 

毛利輝元は1553年1月に安芸(広島県)の吉田郡山城で生まれた。

この頃、毛利家の実権を握っていたのは祖父・毛利元就。

元就は小領主から策略を駆使して中国地方を制覇した戦国時代きっての知将。

 

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毛利元就|出典:wikipedia

輝元は父・隆元の死去によりわずか11歳で家督を継ぐ。

しかし、実権は祖父・毛利元就が握り続けており、輝元が15歳の時元なりに宛てた起請文で

「家臣から相談された場合、事の大小に関わらずすべて元就に伺いを立てる」

と誓っています。

 

加えて輝元には頭の上がらない吉川元春と小早川隆景という叔父が二人います。

この二人は毛利両川と呼ばれる実力派で、山陰を吉川、山陽を小早川が抑えたおかげで

毛利家の勢力が拡大したといっても過言ではありません。

 

後年、輝元は自らの幼少期の心の中を綴っています。

祖父・元就に説教される上に隆景・元春の二人の叔父まで意見してくるので、

このままでは身がもたないと思った

 

実績と経験が物を言う戦国時代。実績も経験もない輝元は偉大な祖父・元就や

叔父の吉川元春や小早川隆景の補佐と指導のもとに動く存在でした。

 

 

「豊臣家の威光」を利用して支配体制を固めた毛利輝元

 

輝元は家臣たちの関係にも頭を悩ませています。

毛利家の政権は、織田信長や豊臣秀吉のような絶対君主による独裁とは程遠く

基本的に家臣との話し合いで物事を決める合議制。

家臣たちの独立心は強く、輝元の采配に従わないことも多かった。

 

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豊臣秀吉|出典:wikipedia

輝元の支配体制に大きな変化をもたらしたのが天下人・豊臣秀吉。

秀吉は諸大名に対して、石高に応じて軍役など様々な要求を出してきます。

 

元就の死後、輝元が毛利家のトップとして秀吉の命令を遂行しなければならないので

そのためには家臣たちの勝手な意見を聞くことができない事を了承させていきます。

 

輝元は豊臣政権の要求を理由に家臣たちを従わせ、

領国の統治を確立する政策を打ち出していきます。

秀吉の命令を逆に利用して、自らの権力を高めて毛利家のトップに君臨しました。

 

豊臣秀吉の死で毛利家も分裂の兆し?

 

豊臣政権がこのまま続けば、この有利な体制を維持できるというのが輝元の本音。

しかし豊臣秀吉が死去するとこれまで秀吉のカリスマで保っていた政権が揺らぎ始めます。

次に天下を狙う徳川家康と豊臣政権を維持しようとする石田三成の対立が起きます。

 

輝元は家康に宛てた書状で「家康と共に行動し、秀頼(秀吉の子)を支えていく」としながら

三成ら奉行への起請文では「三成と敵対する者がいたら、三成に味方する」と誓っています。

やはり豊臣政権がそのまま存続してほしい輝元にとって、

その方針を貫こうとする三成の助けになりたいという気持ちがあったようです。

 

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吉川広家|出典:wikipedia

ところが毛利家の中には輝元と違う考えをする者もいました。

その代表者がかつて輝元を支えた叔父・吉川元春の息子、吉川広家。

輝元を補佐する立場の広家は家康に近い黒田長政らと関係を築いていました。

広家は家康につくことが毛利家が生き残る道と考えていました。

 

どちらにも味方する毛利輝元

 

徳川家康と石田三成の対立はさらに激化していきます。

秀吉の死の翌年、三成を庇護してきた五大老・前田利家が死去すると事態は大きく動きます。

石田三成を討つため家康派の黒田長政、福島正則、細川忠興、藤堂高虎らの大名が

兵を挙げた「七将襲撃事件」が起こります。

 

徳川家康はこの事件を政治的に利用し、黒田長政らに兵を引かせるかわりに

三成の奉行職を解任し佐和山城で蟄居させます。

 

しかし輝元はどちらにつくか態度を鮮明にしません。

今までの政権を維持してくれた三成の失脚を深く悲しむ一方で、

五大老筆頭としてますます力を増す家康に対しては

「父や兄のように思っています」という起請文を出しています。

 

毛利家の外交僧・安国寺恵瓊が「密約」の主犯ではない?

 

三成か家康かどちらに味方するか態度を決めかねていた頃に家康はさらなる行動を開始します。

同じ大老職にある「上杉景勝に謀反の兆し」として、自ら諸大名を率いて大坂を出発します。

 

輝元にとっては同じ五大老である上杉家が討伐されると、

次に家康に狙われるのは我が毛利だと確信していたはずです。

ついに輝元は「石田三成に味方する」と判断を下します。

 

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安国寺恵瓊|出典:wikipedia

 

この時動き出したのが毛利の外交僧で三成とも親しい安国寺恵瓊。

恵瓊は三成と密会し輝元が立ち会っていないにも関わらず、

勝手に輝元を西軍の総大将にすることを決定したとされています。

 

輝元はすべてを知ったうえで西軍総大将に?

 

これまで輝元の西軍の総大将就任には輝元本人が関わっていないとされてきましたが、

三成の挙兵を輝元が事前に知っていたと考えられます。

 

密約に秘書官を派遣

この密約の直前に輝元は恵瓊の要望を受けて右筆を派遣しています。

右筆とは今でいう秘書官にあたり、輝元の名前を使って書状を作成できる立場の人間。

 

安国寺恵瓊を通じて重大な意思決定を行うつもりがなければ、

自分の名前を使っても良い右筆を派遣するということは考えにくいです。

その中には三成挙兵に関する密約の許可も与えていたのではないかと思われます。

 

あまりに早すぎる大坂城への行軍

その後の輝元の行動から、事前に三成と恵瓊の密約を知っていたと思わせる記録があります。

この頃に輝元に仕えていた家臣が書いた記録に密約を知った後の輝元の行動が描かれています。

 

「一族総出で出航し昼夜を問わず急いで広島から2日で大坂・木津の屋敷まで着いた」

 

輝元は三成と恵瓊の密約を知ってから軍勢を率いて広島を出発し

わずか2日で大坂に入ったことになります。

この当時、広島から大坂までの航路は1週間はかかります。

2日で到着するためには、行程や潮の流れ、風向きなどを綿密に計算しなければ不可能なことです。

このことから輝元は大坂に入ることを事前に計画していたのです。

 

大坂城から動かない総大将・毛利輝元

 

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大坂城|出典:wikpedia

大坂に着いた輝元は家康の家臣を追い出して大坂城西の丸に入城し

名実共に西軍の総大将になりました。

奉行たちが家康を糾弾する書状を諸大名に発した「内府ちがいの条々」は上杉討伐を始めとした

家康のこれまでの行動には大義名分がないと弾劾し、輝元と奉行衆は家康を窮地に追い込もうと画策します。

 

輝元の大坂入城を知った家康は上杉討伐を中断して江戸城へ戻りました。

この時、三成は輝元に東国まで出陣して欲しいと考えていました。

輝元が3万の軍勢で浜松まで出陣し、進軍してくる家康と野戦で決着をつけるという作戦です。

 

しかし、輝元は浜松までの東海道の大名はすべて徳川に味方しているので、

家康との決戦の前に兵を消耗したくない。

そこで大坂に留まり周辺の城を落として足場を固める作戦をとります。

 

また輝元は家康について出陣している四国の大名の領地をこのスキに手に入れようと動き始めます。

自らは大坂に留まり西国を抑えることが家康との戦いを優勢に導けると判断したのでしょう。

 

毛利宗家のため密約を結んだ吉川広家

 

大坂城を拠点に西国支配を固めていた輝元は、さらに足場を固めるために

家康に味方した伊勢の安濃津条城の城攻めにかかります。

輝元の従兄弟・吉川広家が出陣したものの反撃により1日の戦いで戦力の10分の1を失います。

 

この時、広家に対し黒田如水(官兵衛)から書状が届きます。

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黒田如水|出典:wikipedia

 

家康が大坂に向かってくるのは間違いないでしょう。

上方の武将もみな家康に味方します。あなたの判断が大事です。

 

伊勢の城攻めでもたつく西軍と比べて、徳川軍が岐阜城をわずか1日で落城させる勢い。

吉川広家は「西軍は家康に勝てる見込みがない」と考えるようになります。

 

なんとか伊勢で勝利した広家ら毛利軍1万5千は関ヶ原を望む南宮山に陣を張ります。

指揮官は輝元の養子だった毛利秀元。

 

一方の家康が3万の軍勢を率いて南宮山のすぐ近くの美濃赤坂に現れました。

ここで広家は毛利家を守るためには家康に従うしか無いという最終決断をします。

 

広家は家康の側近、本多忠勝・井伊直政と和議を結び

「輝元は咎めを受けず、毛利の領地は安堵する」という密約が結ばれたのは、

関が原の戦いの前日9月14日のことでした。

 

和解のことは毛利家の誰もが知っていた?

 

この和解は吉川広家が単独で行い大坂城の輝元を含め

他の武将には知らされなかったとされています。

しかし、その後の毛利家や家康の行動を見ると不可解な点が浮かんできます。

 

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徳川家康|出典:wikipedia

9月15日の未明、つまり密約を結んだ直後に家康は中山道を通って

関が原にある桃配山に本陣を移します。

この桃配山は南宮山の一部ともいえる丘で、

毛利が陣を敷いた場所とは峰続きで繋がる家康にとって危険な場所。

 

この密約を指揮官の毛利秀元が知らなかったとしたら、

家康は敵を背後に抱えた場所に本陣を構えたことになります。

つまり家康は毛利をまったく警戒していなかったということになります。

 

そもそも毛利の動きには家康が桃配山に入る前から不自然なところがありました。

美濃赤坂から出発した家康は桃配山まで中山道を通過しますが、

そのルートは毛利の陣の目の前を横切るしかありません。

 

そこに陣を構えていたのは吉川広家と石田三成の盟友・安国寺恵瓊。

密約を結んだ吉川広家はともかく、恵瓊は徳川本隊を側面から攻撃できる

絶好の位置にありながら静観しています。

 

 

また広家が交わした密約には毛利家譜代の重臣・福原広俊も署名しており

毛利家全体の意思を反映したものと見ることができます。

つまり徳川と毛利の間で結ばれた密約は広家だけでなく輝元も含めた「毛利全体の意思」ということです。

 

輝元の誤算

 

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関ヶ原合戦|出典:wikipedia

1600年9月15日、関ヶ原で十数万もの軍勢が激突し天下分け目の戦いが繰り広げられた。

その中で毛利は「動かないという決断」を最後まで変えることなく家康の天下は決定的になりました。

 

しかし戦後家康を追い詰めた西軍の総大将・毛利輝元の行動が問題視されます。

吉川広家が結んだ密約は反故にされ、毛利家は改易は免れたものの多くの領地を失う厳しい処分が下りました。

 

毛利家のその後

 

元就の「三本の矢の教訓状」で”天下を望むな”と言われていたにも関わらず、西軍の総大将となった輝元。

毛利家は中国地域全域を治める大大名から周防・長門の2カ国に封じ込められ、

36万石の外様大名へと転落してしまいます。

 

120万石から36万石と領地が1/5に減った事で家臣たちを養うことすらできません。

土地を失い国を離れる者、破産して農民へ転身する者が続出します。

 

しかし、幕府は追い打ちをかけるように手伝い普請を命じます。

伏見城の復旧、江戸城の普請に莫大な負担が毛利家にのしかかります。

 

毛利家は「徳川に背いたらこういう目に遭う」という見せしめに徳川幕府から嫌がらせを受け続けます。

長州藩は幕府に平身低頭の土下座外交を行い、取り潰されることなく江戸時代を生き残るのです。

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萩城|出典:wikipedia

 

毛利家には正月に新年の抱負を語る恒例の儀式が行われます。

 

家臣:「徳川幕府追討はいかがなさいますか?」

藩主:「時期尚早である!」

 

この儀式は幕末まで毎年行われていたと言われ、

関ヶ原での敗戦こそが長州藩・毛利家の原点だったのです。

元銀行マンNari(なり)です。専業主夫になったひきこもりのナイスミドルです。「四十にして惑わず」のはずが、家族持ちで今だに人生を模索中です。戦国時代や歴史の考察がメインのブログ発信をやってます。

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