「長篠の戦い」は意外と接戦だった?武田勝頼からみた合戦の考察

今からおよそ440年前に起こった「長篠の戦い」。

織田信長・徳川家康の連合軍が大量の鉄砲で、戦国最強と言われた武田軍を打ち破った戦いとして知られています。

このとき武田軍を率いていたのが武田信玄の四男・武田勝頼。

勝頼というと長篠の戦いで大敗を喫しそれが原因で武田家を滅亡させてしまった人物として知られています。

勝ったものが歴史を書き換えるのは世の定め。合戦に勝った信長側の情報ばかりがクローズアップされ語られてきました。

信長の革新的な戦法を駆使した鉄砲部隊が、武田軍の騎馬隊を一気に殲滅するというイメージが定着していますよね。

戦いの主力武器が馬から鉄砲に変わる「軍事革命」とまで言われていますが、長篠の戦いを敗北した武田勝頼側から分析すると、信長の一方的な勝利でないことがわかります。

 

今回は「武田目線で」長篠の戦いを考察していきます。

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偉大な父・武田信玄

 

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武田信玄|出典:wikipedia

父・信玄は家臣たちに神仏と崇められるほど尊敬を集めていた名将。

武田信玄は恐怖政治を行う父・信虎を追い出し、重臣たちに望まれて武田家の当主になった。信玄の代で武田家の所領は7倍に拡大、独立心旺盛な多くの武将が配下に加わった。

しかし信玄は絶対的なカリスマと優れたリーダーシップで家臣団を統率し武田家を戦国屈指の大名家に育て上げます。

 

家臣団の統率に苦しむ勝頼

 

 

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武田勝頼|出典:wikipedia

信玄の死後家督を継いだのは、28歳の四男の勝頼。

しかし当時勝頼が置かれた状況はあまり良いとはいえない。勝頼は父・信玄に代わり家臣を統率する難しい課題に直面します。

信玄とともに国の拡大に貢献してきた重臣たちは「自分たちが信玄とともに国を大きくしてきた」という自負がありました。

家臣たちは若き当主・勝頼に対しても挑戦的でなかなか勝頼自信の意見が通らなかったようです。

 

勝頼が家督を継いだのは繰り上げ当選?

 

勝頼が家臣団の統率に困難を極めた原因は、勝頼が家督を継いだ経緯。

 

信玄には正室との間に三人の男子がいて、そもそも長男の義信が家督を継ぐ予定でした。

四男の勝頼は信玄の側室・諏訪御料人との間に生まれた子で、信玄の配下にあった信濃(長野県)の諏訪家の家督を継ぎ「諏訪勝頼」と名乗っています。

しかし長男・義信は謀反の疑いをかけられ後継者から外され、次男は失明のため出家、三男も早くに死去していたため勝頼が急遽家督を継ぐことになったのです。

 

だが、信玄の時代から武田家に使えてきた重臣たちには「諏訪家の人間に武田家を乗っ取られてしまった」と考える者もいて古参の家臣たちは勝頼の側近たちとも折り合いが悪く、勝頼の政策に反対することも多かったようです。

勝頼は重臣に「決してあなたを遠ざける気はないので、私の為を思って意見するのであれば聞き入れる」という誓約書を送っています。当主が誓約書を書いてでも重臣との関係を改善しようとする勝頼の苦労がうかがえます。

本来、武田の家を継ぐ人物でなかった勝頼は信玄時代の負の遺産もそ合わせて受け継いで当主となりました。

 

領地拡大に活路を見出すしかなかった勝頼

 

勝頼は積極的な軍事行動に出ることで家臣団への求心力を高めようとします。

最大の課題は父・信玄の宿敵「織田信長と徳川家康」を自らの力で打倒することだった。

 

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徳川家康|出典:wikipedia

信玄は晩年、西へと領土を拡大しようとしていたが進軍の途中で病没。

父の悲願を勝頼が受け継ぐ形なら家臣たちもついてくると考えたのでしょう。

 

信長の脅威となった勝頼

 

信玄の死の翌年、勝頼は信長の領地・東美濃(岐阜県)に兵を進めた

勝頼が率いる武田軍は連戦連勝し18もの城や砦を攻略した。

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高天神城|出典:wikipedia

さらに勢いに乗った武田軍は家康の領地・遠江(静岡県西部)にも侵攻し、父・信玄も出来なかった難攻不落の高天神城を落城させた。

 

この時の織田信長は上杉謙信に宛てた書状で勝頼の実力を認めている。

「勝頼はよく信玄の掟を守り、若輩ながら油断が出来ない人物だ」

 

織田信長にとって武田勝頼は信玄と同じく大きな脅威だったのです。

補足説明

信長は武田信玄が死んだ直後には「(信玄がいないなら)武田はそう長く続かない」と語っていましたが、たった数ヶ月で勝頼に対する評価が180度変わったことになります。

 

勝頼の長篠侵攻の狙い

 

1575年4月、父・信玄の三回忌法要をすませるとさらに大規模な作戦に出ます。

 

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長篠城|出典:wikipedia

家康の本拠地三河(愛知県東部)に約1万5000の兵を率いて家康の家臣が守る長篠城を包囲します。

長篠城は信濃から三河に抜ける要所、ここを抑えて家康の拠点・岡崎城と浜松城を分断することが狙いです。

 

 

このとき家康は自力では武田軍を防げないと判断して信長に援軍を要請します。

ただちに信長は岐阜を出陣。その兵力は武田軍をはるかに凌ぐ3万、鉄砲の数は千挺とも三千挺とも言われています。

しかし、それは勝頼にとって父・信玄以来の宿敵、信長と家康を一挙に倒す絶好のチャンスでもありました。

 

設楽原で待ち構える織田・徳川連合軍

 

信長の援軍は三河・岡崎城に到着し徳川軍と合流。織田・徳川連合軍は約3万8千となった兵力で進軍を開始。

しかし、織田・徳川連合軍は意外な行動に出ます。

 

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設楽原|出典:wikipedia

長篠城のおよそ3km手前の設楽原(したらがはら)で動きを止め、柵を築き始めます。

信長と家康が陣を敷いた設楽原は北に雁峰山がそびえ、南には断崖が続く豊川。ここなら武田軍から側面の攻撃を防ぎ、正面で迎え撃てる地形だった。

自分たちにとって戦略的に優位に立てる場所に陣を張って、武田軍を誘い込むのが信長の作戦だった。

 

勝頼の決断

 

一方、勝頼の長篠城攻めは膠着状態。城内の兵はわずか500だが、家康の家臣・奥平貞昌は決死の覚悟で抵抗しいまだに落城させることが出来なかった。

江戸時代に書かれた軍学書「甲陽軍鑑」によると、ここで勝頼の陣で軍議が行われました。

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武田二十四将|出典:wikipedia

 

①領国に撤退

信玄時代からの重臣たち(馬場信春・山県昌景・内藤昌秀)は「敵は大軍だから撤退するべきだ」と主張。

重臣たちの意見どおり、いったん兵を退く安全策なら敵が追撃してきても、領国内に残してきた1万の兵と合流して迎撃できる…

しかし敵が追撃してこなければ、宿敵信長・家康を一気に叩くチャンスを逃すことになってしまう。

 

②長篠城で迎え撃つ

重臣たちは「どうしても戦うのなら、長篠城を奪い城を拠点に迎え撃つべき」と提案した。

長篠城を奪えば、敵の大軍相手に鉄壁の守りで持久戦に持ち込むことが出来る…

しかし、いまだに長篠城は敵の手にある。このまま城攻めを続ければ決戦前に味方の損害が更に増えることになる。

 

③設楽原で決戦する

勝頼の側近たちは重臣の意見に反対し「ただちに設楽原へ軍勢を動かしこちらから攻撃を仕掛ける」よう進言した。

敵陣に撃ってでれば、我が軍は間違いなく日の本最強。父・信玄もなし得なかった信長と家康の首を挙げれば他国も家臣たちも我が力を認めるだろう。

多数の鉄砲を装備し柵を築いて待ち受ける織田・徳川連合軍に正面攻撃を仕掛けるのは無謀のように見えるが連戦連勝で士気が高く、機動力に勝る武田軍であれば鉄砲隊を打ち破る可能性は充分にある。

 

宿敵を前に勝頼は決断を迫られていた。

 

 

設楽原へ進軍する武田軍

 

織田・徳川連合軍が設楽原で布陣した二日後、ついに勝頼が行動を起こします。

三千の兵を長篠城の包囲に残し自ら1万2千の軍勢を率いて設楽原に向かい、川を挟んで連合軍と対峙します。

勝頼は敵陣に決戦を仕掛ける決断に懸けたのです。

 

このとき勝頼は領国の家臣に宛てた手紙の中でその理由を述べています。

武田勝頼書状(天正3年5月20日付)

敵は手立てを失い一段と逼迫している。今こそ本意を遂げたい。

 

勝頼は連合軍が動きを止めたのは「攻める手立てを失っている」と判断し、「長年の悲願を果たすため」設楽原に向かったということです。

 

設楽原の戦い(通説)

 

1575年5月21日、夜明けとともに武田軍の攻撃が始まった。

しかし勝頼は直ちに総攻撃を行わず敵の動きを慎重に見極めます。

 

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織田信長|出典:wikipedia

一方の信長も兵士の一部を森の中に隠し「兵力が少ないように見せかけて」武田軍を待ちます。

「信長公記」より

敵方へ見えざる様に、御人数三万ばかり立て置かる

 

 

そして合戦開始から二時間がすぎたころ「長篠城を囲んでいた味方の砦が徳川軍の奇襲を受け壊滅した」という報告が入ります。

夜のうちに家康の家臣・酒井忠次が別働隊を率いて移動し夜明けとともに武田の砦を攻撃したのです。

 

武田軍の背後は絶たれた・・・ しかし正面の敵は思ったより少ない。

ついに勝頼は全軍に総攻撃を命令、信長・家康の陣をめがけて武田軍は次々突撃をしていきます。

その戦いの様子が「長篠合戦図屏風」に描かれています。

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長篠合戦図屏風|wikipedia

馬防柵の前後から大量の鉄砲で攻撃する織田・徳川の連合軍。

それに対し、柵に近づくことも出来ずやられていく武田軍。

戦国最強といわれた武田軍が完膚なきまでに敗北する様子が表現されています。

 

設楽原の戦い(異説)

 

しかし別の絵師によって描かれた「長篠合戦図屏風下絵」では連合軍の鉄砲の連続攻撃をものとせず柵まで押し寄せる武田軍と、柵の中に逃げ込む織田軍の様子が描かれている。

また徳川家家臣・本多忠勝の記録でも「武田軍は柵を全部打ち破ってきた」と書かれている。

 

長篠の合戦は通説で言われているような信長のワンサイドゲームではなかったと言えそうです。武田軍は倍以上の敵に対して4時間以上にわたり猛攻を続けたが、信長は大量の鉄砲と隠していた兵力を次々投入し武田軍の力を削いでいった。

そしてついに武田軍は力尽き、勝頼は再起をかけ領国に撤退。しかしこの戦いで武田家を支えてきた多くの重臣と数千の兵が討ち死にしました。

 

武田家の滅亡

 

この戦いで多くの将兵を失った勝頼は、武田家を立て直すため改革を行った。躑躅ヶ崎館から新府城に本拠を移し、ライバル関係にあった上杉家とも同盟を結んでいます。

 

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天目山勝頼討死図|出典:wikipedia

しかし勝頼の改革が成果が出る前にに信長・家康に攻められしだいに領地を失っていきます。その後、次々と家臣たちが離反し1582年に信長・家康によって甲斐の天目山に追い詰められた勝頼は、そこで一族たちと自害しました。

 

結果的に武田家を滅ぼしてしまった勝頼ですが、決して凡人ではなく優秀な人物であったと言われています。しかし常に父・信玄と比べられ、思い通りに能力を発揮できなかった悲運の人物でもありました。

 

 

元銀行マンNari(なり)です。専業主夫になったひきこもりのナイスミドルです。「四十にして惑わず」のはずが、家族持ちで今だに人生を模索中です。戦国時代や歴史の考察がメインのブログ発信をやってます。

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