織田信長の「鉄砲三段撃ち」はウソだった! どこにも記録がない伝説的の戦法とは?

織田信長が考案したとされる画期的な戦法「鉄砲の三段撃ち」

1575年「長篠の戦い」で三千挺もの鉄砲を用いて行われた有名な戦法です。

 

しかし実際に織田軍が所持していた鉄砲は千挺ほどで「鉄砲の三段撃ちはなかった」といわれています。

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2016.10.03

 

信長の「鉄砲の三段撃ち」とは

 

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三段撃ちは絶え間なく鉄砲を撃ちかけて武田騎馬隊の突撃を防ぐために信長自信が考案したと言われています。

3000挺の鉄砲隊を1000挺ずつ3列に並べ、最前列の鉄砲隊が鉄砲を撃っている間に2列目の隊が火縄に火をつけ、3列目の隊が弾を込める。この3列の鉄砲隊がローテーションすることで、常に敵に一斉射撃が出来るという戦法。

信長が鉄砲の三段撃ちによって「戦国最強といわれた武田騎馬隊を破った」というのがこれまでの定説でした。

 

「信長公記」に三段撃ちの記録がない

 

しかし信長の家臣・太田牛一が1600年ごろに記した「信長公記」には鉄砲の数が、千挺ばかりとあるだけで三段撃ちのことは記されていない。

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信長公記|出典:wikipedia

信長公記(巻八)より

 

信長は家康陣所に高松山とて小高き山御座侯に取り上げられ敵の働きを御覧じ、御下知次第働くべきの旨兼ねてより仰せ含められ鉄炮千挺ばかり

 

(以下現代訳)

(設楽原では)信長公が家康陣所の高松山という小高い山に上って敵方の動きを凝視していた。信長公の指示に従うように固く命じられた鉄砲衆千挺がひかえていた。

 

「三段撃ち」はハイリスク・ローリターンだった

 

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長篠合戦図屏風|出典:wikipedia

三段撃ちを行うには、移動のための広い場所が必要で、織田軍が陣を敷いた設楽原は山と川に挟まれ、あまり空間に余裕はなかった。

また三段撃ちのような複雑な動作をこなせる訓練された兵ばかりではなく、当時の火縄銃の構造的な問題として暴発の危険性も高かったようです。

さらに火縄銃では火縄が消えたり内部にカスが溜まることが頻繁に起きるので、一定の間隔で撃ち続けることは不可能でした。

つまり三段撃ちは再現性も低く非効率な戦法だという結論になるわけです。

 

三段撃ちが定説になった理由

 

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そもそも三段撃ちという戦法が記録に登場するのは、江戸時代前期の流行作家・小瀬甫庵の著「信長記」にある「鉄砲三千挺(中略)一弾ずつ立ち変わり打たすべし」という記述。

 

しかし同書は太田牛一が記した「信長公記」を元に創作したもので、今では資料的価値はほとんど認められていません。

 

しかし、どういうわけか旧日本陸軍は「信長記」から多くの話を引用して「日本戦史・長篠役」を編纂。この資料の中で、信長が三段撃ちで武田の騎馬軍団を打ち破ったと紹介しています。

このことがきっかけで三段撃ちが定説となったといわれています。

 

 

 

 

元銀行マンNari(なり)です。専業主夫になったひきこもりのナイスミドルです。「四十にして惑わず」のはずが、家族持ちで今だに人生を模索中です。戦国時代や歴史の考察がメインのブログ発信をやってます。

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