「大谷吉継」の墓を建てたのは敵将「藤堂高虎」!敵にも味方にも死を惜しまれたのはなぜ?

大谷吉継は関ヶ原の戦いで盟友・石田三成を助け、大軍を相手に一歩もひるまず奮戦しましたが力尽きて戦場に散りました。

その大谷吉継の墓は関ヶ原で激闘を演じた相手、藤堂高虎によって建てられました。

 

「敵の墓を建てる」ことは身内の反感を買うことも、徳川家康から裏切りの疑いをかけられることも藤堂は承知だったはず。

しかし、どうしても「自分の手で弔いたい」という信念が彼を動かしました。

 

関ヶ原の戦いの時、大谷吉継は重い病に冒され目が見えず自分で歩くことさえ出来ない体でした。

しかし親友の石田三成のために、輿(こし=現代の車いすのような物)に乗って最前線で戦いを指揮します。

味方の裏切りに遭い10倍以上の敵に取り囲まれても、義を貫き最期まで戦場を離れなかった吉継の姿に心を奪われない者など誰もいませんでした。

藤堂高虎は心の底から敬意を持って吉継を弔うつもりだったのです。

その後徳川家からは何のお咎めもありませんでした。家康もきっと同じ気持ちだったのでしょう。

 

大谷吉継

 

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。

生誕 永禄8年(1565年)※永禄2年(1559年)説も
死没 慶長5年9月15日(1600年10月21日)

出典元:.wikipedia

 

 

石田三成との出会い

 

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石田三成|出典:wikipedia

戦国大名の中から頭角を現した織田信長が天下統一に向けて邁進していた頃に、吉継は近江(滋賀県)で石田三成と出会います。

 

この頃、近江を治めていたのは信長の下で出世街道をひた走る長浜城主・羽柴秀吉でした。

初めて城を持った秀吉はさらなる出世を狙っています。

そのため優秀で信頼できる人材を育てるために、身分に関係なく多くの小姓を長浜城に集めました。

その中でも最も細かい気遣いの出来る石田三成は、秀吉のそばで身の回りの世話をする役目を任されていました。

 

このころ仕官先を探していた大谷吉継は、秀吉に紹介してもらうため全く面識のない三成に頼みにいきました。

三成は最初こそ無礼と思ったが、歳がちかく物怖じしない性格の吉継とすぐに打ち解け一緒に仕事をしたいと思うようになります。

しかし小姓にすぎない三成では、今すぐに秀吉に推挙するわけにはいきません。

 

その後、三成は元服した時に秀吉から祝いとして2000石の加増を受けます。(現在の貨幣価値でいえばおよそ2億円)

が、三成はこれを丁重に辞退して秀吉に別の要求をします。

2000石の加増はいりません。その代わりに大谷吉継を召し抱えて欲しいのです。

三成は2000石を棒に振って吉継の仕官を成し遂げました。

吉継が三成に感謝したのは言うまでもありませんが、三成も親友を推挙することが出来て喜んだに違いありません。

 

豊臣政権で才能を開花させる大谷吉継

 

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豊臣秀吉|出典:wikipedia

本能寺の変で天下統一目前だった織田信長が命を落とします。

信長亡きあと、秀吉は自らが天下取りに名乗りを上げ対抗する勢力との戦いを繰り返します。

 

柴田勝家との重要な合戦「賤ヶ岳の戦い」で吉継は先縣衆(さきがけしゅう)の一員として抜群の武功を挙げます。

その吉継の戦場での働きを見た秀吉は武将としての才をたたえます。

大谷吉継には百万の兵を与えて指揮を執らせてみたい

 

1590年、天下人となった秀吉から越前(福井県)敦賀城主として5万石を与えられ、吉継はついに豊臣政権の中枢に入ります。

ここまでは順風満帆に出世を続けていきます。

 

不治の病に冒される大谷吉継

 

やがて吉継は顔や体から膿が出る病気にかかります。

吉継がかかった病気はハンセン病とか、この時期に流行した梅毒とも言われています。

また目も病んでいたようで、手紙に記す花押(サイン)の代わりに印判を使った記録があります。

この頃から吉継は素顔を隠すため、白い頭巾をかぶっていたと言われています。

 

ある日、秀吉の主催の茶会に吉継と三成も招かれました。同じ茶碗で回し飲みするのがこの茶会の決まりごと。

しかし吉継はその茶碗の中に、顔から噴き出た膿を落としてしまいます。周りの人はその茶を飲むのをためらったが、三成がそれを一気に飲み干して「うまい!もう一杯頂きたい」とその場を和ませました。

感激した吉継は、三成との友情を固く誓いました。

 

対立する徳川家康と石田三成

 

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徳川家康|出典:wikipedia

豊臣秀吉がこの世を去ると、256万石の圧倒的な力を持つ徳川家康が天下を狙い始めます。

秀吉の遺言を平然と無視して独断で政治を進めていきます。

これに三成は異を唱え反発しますが、家康の器量を見抜いていた吉継は徳川につくと心を決めました。

徳川家康の命令を受けて会津の上杉征伐に向かう吉継でしたが、三成から家康を倒すので味方して欲しいと持ちかけます。

吉継は一度は断ったものの、あくまで豊臣家に忠誠を誓う義理堅い三成を見捨てることは出来ず、無謀と知りながら三成に味方することにしました。

この時、友を思うあまりこんなことを言っています。

お前は普段から態度が横柄で嫌われているので、もし総大将になっても誰もついてこない。

お前は天下に並ぶものがいないほど知恵があるが、大将としては勇気と決断力に欠けている。

お前は出しゃばらずに総大将は毛利輝元か宇喜多秀家に任せるべきだ。

三成は忠告どおりに毛利輝元を総大将に決めました。

 

大谷吉継の最期

 

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関ヶ原合戦屏風|出典:wikipedia

石田三成の西軍8万2000と徳川家康の東軍7万4000は関ヶ原でぶつかります。

序盤は西軍が優位に戦いますが、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返ります。

それに立ちふさがったのが大谷吉継。

小早川軍8000に対して大谷軍はわずか600。10倍以上の圧倒的な戦力差にもかかわらず、大谷軍は互角に戦います。

小早川秀秋が寝返るのを想定していた吉継は神がかった戦いを展開しますが、さらに次々と寝返りが続きます。

しかも西軍を裏切った部隊すべてが大谷軍に一斉に襲いかかったので吉継は窮地に立たされます。

もはや退路も絶たれた吉継は覚悟を決めて自害しました。

大谷軍が壊滅すると西軍は総崩れになり、三成は再起を図るため退却します。

しかし徳川方の追っ手に捕らえられ、京都六条河原で斬首されました。

 

大谷吉継は豊臣秀吉の息子だった?

 

大谷吉継の出生には謎が多い。

吉継の父親は豊後(大分県)大友氏に関わる大谷盛治だとか近江の大谷氏だとか言われていますが、はっきりしていません。

吉継が家族の無病息災を願って太宰府天満宮に奉納した鶴亀文縣鏡に「東」という母親の名が書かれています。

母親の東は秀吉の妻、北政所(寧々)の侍女で大坂城の奥御前を仕切っていたと言われています。

秀吉が東に宛てた自筆の手紙が現存しており、秀吉がある会合に東を呼ばなかったことに対する弁明でした。

あなたを呼ばなかったので私を恨んでいると聞きました。

長い間親しくしてきた間柄なので非常にあなたの事を大事に思っています。

どうか機嫌を直して欲しい。

無類の女好きの秀吉と東の関係がただならぬものならば、吉継は秀吉の息子である可能性が高い。

さらに秀吉が吉継を特別扱いしていた記録があります。

それは病に冒された吉継にために秀吉が大坂城で行った祈祷です。

秀吉の一族でも、大大名というわけでもない、侍女の息子のためにプライベートな空間である殿中で、わざわざ祈祷を行うとは考えにくいことです。

しかも吉継という名前は「秀ぐ」という意味だという説もあります。

もし吉継が秀吉の子供なら、徳川に負けると知りながら三成に味方したのは、弟である豊臣秀頼を助けるために当然の選択だったと思います。

 

大谷吉継の墓を建てた藤堂高虎の心中

 

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藤堂高虎|wikipedia

藤堂高虎は文武の才に優れ、何度も主君を変えましたが、その度に加増されて召し抱えられるほどの切れ者でした。

豊臣秀吉や徳川家康からの評価は抜群に高く、家康は晩年「国に大事があるときは、高虎に一番に相談せよ。」と褒め称えました。

しかしあまりに切れ過ぎる才能は常に「危険」と警戒され、働きの割に恩賞はあまり大きくありませんでした。

 

大谷吉継も豊臣家に対する貢献から考えると、もっと高く評価されてもおかしくありません。

高虎は吉継に自分と近いものを感じて、自ら墓を建てたのかもしれません。

 

元銀行マンNari(なり)です。専業主夫になったひきこもりのナイスミドルです。「四十にして惑わず」のはずが、家族持ちで今だに人生を模索中です。戦国時代や歴史の考察がメインのブログ発信をやってます。

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